その夜は酷く霧深くて小さな街灯の明かりなど真っ白に飲み込んでしまう程だった。
これなら今宵の食事も早々に済ませることが出来るだろう。そう思うと石畳の上を歩く吸血鬼の足取りも自然と軽快になる。
するとふいに何かの気配を感じて足を止めた。人間とは違う匂いが鼻につく。
「こんばんは、良い夜ですね」
挨拶は斜め前から聞こえた。吸血鬼はそちらへじっと目を凝らしてみたがぼんやりとした人影さえ捉えることは出来ない。
黙っていると小さく笑うような息遣いが聞こえてきたので相手との距離はそう遠く無いことが窺える。
「こんな夜に颯爽と歩くキミは吸血鬼?」
夜に紛れてお食事…って所かな?と問われ、吸血鬼は見えもしない相手をきつく睨む。
「何者だ?」
姿を見せろと言えば今日はこのままでいさせて欲しいな、と断られたので吸血鬼の眼光が鋭さを増した。声の主はごめんと謝ったけれどその声音はどこか弾んでいる。
「だってこんな夜はボクにとってもすごく気分が良いんだもの」
誰も彼も消えてしまったみたいじゃない?と嬉しそうに笑う。
けれどあからさまに不機嫌な吸血鬼に気が付いたのか声が笑いを消してもう一度ごめんと謝罪した。キミに嫌われたくは無いんだと言っても吸血鬼の眉間からしわは消えない。
「お詫びに今度キミの所へ姿を見せに行くよ」
ああだけどキミにはボクが分からないか、と少し困ったような声が言う。すると吸血鬼が鼻で笑った。
「こんな間抜けな声を聞かされれば嫌でも分かる」
一呼吸置いて大きな笑い声が響き渡った。呆れたように息を吐いた吸血鬼は再び足を動かし霧の中へと姿を消した。


吸血鬼の元へ透明人間がやって来たのはそれから三日後のことだった。





『夜と霧』

06/11/13