兎の穴に落ちた少女はどうやって家へ帰っただろうか。
扉の向こうへ落ちながら、ユーリは静かに瞼を閉じてそんなことを思う。
そうすると、自分を抱える青い猫の温度がやけにはっきりと感じられた。
「ユーリ、愛しているよ」
ずっと幻聴なのだと思っていた。
学校は退屈だったし生活は単調だったし、何より兄は絶対だった。
抑圧しかない日々の中で無意識の内に逃げ場所を探しているのかもしれないと、多感な青春期の只中にある年齢のユーリはそう考えていた。
「ユーリ、愛しているよ」
ベッドの中でも風呂の中でも囁く声は皆同じ。
どうやら大分疲れきっているようだ、と思わずにはいられなかった。
何より、その声に呼ばれる自分の名前はやけに綺麗に感じられて、悪くないとさえ思っていたのだから相当だったのかもしれない。
けれど数日前から聞こえるようになった幻聴は、ついに本物へと変わってしまった。
それはコンパスで描いたみたいに一寸の狂いもない丸い満月が浮かび上がった真夜中のことだった。
喉が渇いたユーリがキッチンでコップ一杯の水を飲み干してから自室に戻ると、部屋に男が立っていた。
一つしかない窓の前で月の光に浮かび上がる男の色は青、猫のような耳と長い尻尾が目を引く。
けれどそれより印象的だったのは、彼の顔へ浮かんだ三日月みたいな口だった。
「迎えに来たよ、ユーリ」
いつの間にか耳に馴染んでしまっていた声が、そう告げた。
コスプレをした泥棒なんているだろうかと思いつつも、これは不法侵入というやつだと頭の片隅で断言する。
声を張り上げるために開かれた口は、しかしそのまま凍りついた。
瞬間にして男が消えた。そうして瞬間にして目の前に現れたからだ。
固まったままの小さな口を、骨と皮だけみたいな手が覆い隠す。
「お兄さんにはナイショだよ」
青い猫は自らの口元に指を一本立てて、密やかに笑った。
恐怖を感じたのが冷静な頭の片側なのだとしたら、言いようのない高揚感を覚えたのはその反対側のほうだろう。
ユーリは上げる声も忘れて、目の前の男の一つしか見えない瞳をただじっと見つめた。
同じ赤に色付いていることが、何故だか酷く嬉しいように思えたのはどうしてだったのだろうか。
男は抵抗する意思を消したユーリに満足げに微笑むと、背後の窓へ顔を向ける。
「お庭を見てごらん、ユーリ」
口元へ翳していた手が離れ、それが今度は小さな白い手をそっと掴んで歩くことを促す。
それに従い辿り着いたガラスの向こう、よく知る緑の芝の上に見たことも無いものが一つ紛れ込んでいた。
扉だ。
赤い皮張りの戸を金で縁取った滑らかな曲線が何とも可愛らしい形に仕立て上げてある、ようは少女趣味の塊みたいな形をした扉があった。
しかもそれは芝生の上へぺたりと張り付いているかのようで、例えるならコンクリートに設えたマンホールのようだった。
つまるところ、扉の先は地面の奥へと続いている構造なのである。
仮にあの扉へ入る者がいるとして、その人の平衡感覚だとか重力といった概念を完全に無視した愛らしい作りの扉は、満月の光をスポットライトのように浴びて悠然とそこに光り輝いていた。
嫌な予感というものは、得てして当たるものだ。
ユーリは何となく痛いような気がする頭に気付かないふりをして、隣に立つ男をそっと見上げてみた。
すると彼もまた、満面の笑みを浮かべてユーリを見下ろしていた。
「気に入ってくれた?あれはユーリのための扉なんだよ」
すっかり色を失くした愛らしい顔が歪み、おもむろに唇を動かす。
「…お前は先程、私を迎えに来たと、そう言ったな…?」
青い猫の口元が、針のように細く鋭利に尖った三日月になる。
「ユーリは賢い良い子だね」
背筋に冷たい汗が伝う感覚をやけにはっきりと感じながら、けれど逃げ出すにはもう遅すぎるようにも感じられた。
眩しいものを見るみたいにして自分を見つめる男の、その物欲しげに揺らめく瞳がユーリの体から自由を奪い去る。
「愛しているよ、ボクのユーリ」
すっかり耳慣れた心地好い甘い囁きと共に、伸ばされた長い腕が華奢な体を優しく抱き上げた。
開け放たれた窓の向こう側から、少し冷たい夜風が舞い込み二人の髪を揺らす。
間近で見る猫の顔は、冷たい色をしているくせにどこか温かいような気がした。
遠くで扉がゆっくり開き、青い男の足が窓枠へ乗り上げたかと思うやいなや、その身はユーリ諸共軽やかに夜空へ舞い上がった。
そうしてすぐさま下降し出し、綺麗な放物線を描きながら地面へ開かれた扉の先の、真っ暗な奥底へと落ちてゆく。
これは夢なのだろうとユーリは思った。
夢だから、もう少しだけ見てみるのもいいかもしれない、と思った。
『XXX in Wonderland』
08/09/26