結局、チョコレートなんてどこにも無かった。
あげるからおいでと招かれた部屋の中、あったものは貧相な男ただ一人だけで、吸血鬼はとびきりの渋面を作ってその青い面を睨み付けてやる。
「嘘吐き」
「なんで?チョコなら今、キミの目の前にあるじゃない」
平然と笑う男が差し出す両腕は、確かに肘から下の部分が普段の透けたものとは違い、今は暗い茶色をした甘い塊と化していた。
起きたら既にそうなっていたと彼は言った、きっと今日のせいだよと笑って。
「こんな物はチョコレートでは無い」
「そんなことはないよ、ちゃんと甘くて美味しいよ」
キミも食べてみればいい、と言って自らの左手を一舐めした男が、右の手を差し出し近寄って来る。
その小指の先は、ちょうど第一関節から先が欠けている。
ユーリは顔を背けると尚も横目でその茶色い菓子を睨み続けた。
仮に、食べたり或いは溶けたりしたら彼の腕は無くなってしまうのだろうか、この奇怪な変容が明日の朝には跡形も無く消え去っていたとしても、これが彼の腕であることは明日になっても何ら変わりないのではあるまいか。
「そんなに怖い顔しないでよ」
いつもと変わらぬ笑顔のまま近付く男の甘い指先が唇へ触れる、その僅か前に吸血鬼が一足下がって距離を作った。
正面から男を見据えて、少しばかり顎を上げる。
「それはお前の腕だ」
幾ら甘く茶色くなろうとも、それはやはりスマイルの腕でしかない、とユーリは思う。
「お前の腕ならば、それは私の食すものではなく、私へ触れるものだ」
悠然と腕を組み、平然とした顔で、当然のことを言い放つ。
別に可笑しなことを言ったつもりはなかった、けれどそれは透明人間のどこかをくすぐったらしい。
彼は大きな声で歯切れよく笑って、それをぴたりと止めてみせた。
「キミの理屈は病気と大して変わらないね」
だけど間違ってはいない、そう言った男の微笑みは満ち足りた喜悦に満ち満ちていた。
甘ったるい手の平が真っ白な頬をついに捕らえ、甘くいやらしく撫でる。
そうしてふいに、そっと両手で頬を包み込むと顔を寄せ、あと7センチの距離を残して止まった。
「もしもこの手が溶け落ちて、それはもうボクの意思なんか及ばない、ただ甘いだけの残骸でしかなくなったとしても、キミはそれを食べたりはしない?」
息が触れる程の距離は、この男の未だ幼い光を宿す隻眼を、とても綺麗に見ることが出来る。
それを何より吸血鬼は気に入っている。
それだけでもう、満足出来る。
「チョコレートなんていらない」
笑んで答えた赤い唇が、目の前の男の唇を食べようとするみたいに塞いだ。





『チョコレートなんていらない』

11/02/14