目覚めたら見知らぬ場所に居た。
見知らぬ男が名前を呼んで、大丈夫だと微笑んだ。
「だってボクはキミを愛しているもの」
なんてイカれた奴だろうと思った。

ユーリが覚えている事と言えば、自分の名前と兄の瞳の色とそれから最後に見た薔薇の匂いぐらいだった。
真っ赤な薔薇は剣咲きの×××で、たくさんのそれらがどこまでも続いていた。
薔薇という花、特に真紅のそれがユーリは一等好きだった。
だからその美しい光景を目の前にして少々浮かれていたのかもしれない。
だって今ならよく分かる、薔薇が話しかけてくるだなんて在り得ないことだったのだ、と。

見知らぬ男は自らをスマイルと名乗り、何か欲しいものは無いかと尋ねた。
そこでようやくじっくりと部屋を見回すことになったのだが、壁もカーテンも家具や装飾品に至るまで何もかもが暗い色をしていて何だか酷く見えずらい。
スマイルでさえ、どこかぼんやりとしているように見えた。
「この部屋なかなか素敵でしょう?全部キミに似合うものを選んだんだよ」
私のイメージはこんなに薄暗いのか、と笑顔のスマイルを尻目にユーリは思う。
そうしてふいに、己の体に目がとまる。
手首に繋がれた銀色の輪と鎖もさる事ながら、それ以上に目を剥いたのは着用していた服だった。
言葉にするなら、ひらひらのふりふり、とでも言おうか。
それもスカートである。
ユーリはれっきとした男だ。そのあまりにも整い過ぎた容貌に度々女性と間違われることはあっても、彼自身は女装をする趣味も興味も断固として無い。
服を見たまま動かなくなったユーリに、スマイルは頭と両手を左右に振った。
「あ、服はボクが着替えさせちゃったけれど、キミの体で変なことはしてないから安心してね」
当たり前だと言いたかったが、彼をイカれていると評したのは他でもなく自分だ。
ユーリは綺麗な声音をどこまでも鋭く冷ややかにさせて一言言い放った。
「スマイル、今すぐまともな服を用意しろ」
ええ〜なんで〜とっても似合ってるのに〜、と唇を尖らせるスマイルを細めた瞳で睨め付ける。
「私を愛していると言うならば、何処までも私に尽くしてみせろ」
途端、青い男は照れた笑顔を浮かべた。
「そんな風に試さなくても、ボクの愛は本物だから心配なんていらないよ」
何だか頭が痛くなってきて、ユーリはこめかみ辺りを軽く押さえる。
とりあえず紅茶を淹れさせよう、話はそれからだ。
端正な顔立ちの少年はそんなことを考えながら、これからどうなるかなんてことよりも先に明日の学校の心配が無くなったことを素直に喜ぶことにした。
だって、この目の前の男が本当にイカれているとしたら、まともな話なんて出来るはずもないのだから。

真紅の薔薇が囁いた。
「ねぇ、ウサギ穴に落ちた女の子の話を知っている?」
たくさんの赤の中で、一等綺麗な薔薇だった。
「違う世界の入口は、案外身近にあるんだよ」
それはユーリが大切に育てていたものによく似ていた。
だから足を止めてしまったのだ。
決して、囁くその声音があまりに甘くて優しくて、そうしてどこか寂しげだったからなんかじゃない。
勿論それが本当に可笑しな世界の入口だったなんて、知る由もなく。





『どこかの国の誰かのアリス』

08/07/06