ある年の冬、雪に埋もれていたオバケの子を拾った。
小さなそれはあまりに冷たかったから、きっとすぐに消えてしまうだろうと思っていたのに、気付けばすっかりよく見えるようになっていて、それからずっと傍に居るようになった。
オバケじゃないよと笑った子供が持っていたものは、スマイルというたった四文字の名前だけだった。
そのことを打ち明けた彼はそれから、吸血鬼の呼び名を求めた。
別に何でも構わなかったけれど、教えて欲しいのだと強請られて、頭の片隅からどうにか古びた名前を引っ張り出して教えてやった。
すると、幼い顔が綻ぶように満面の笑みを湛え、唇がそっと震える。
「ユーリ」
誰かに名前を呼んでもらうのは、本当に久しぶりだった。
それからというもの、子供特有の高い声がその名を呼ばない日は一日だって無かった。
彼は何かを求めるように傍らへ纏わりつき、何でもあっという間に覚えてしまう。
ピアノの弾き方、薔薇や紅茶の名前、お気に入りの古い物語。
忘れたとばかり思っていたものが、小さな手に引かれるようにして、体の奥底から一つずつ取り出されていく。
そのことに驚く吸血鬼をよそに、子供の好奇心は留まる所を知らず、ある日今度は実際に手を引かれ、埃まみれの部屋や地下室へと連れ回された。
そうして行く先々で、あれは何?これは何?と忙しなく問われた。
どれもが全て、いい思い出ばかりを詰め込んでいる訳ではないだろう。
しかし、幸いにも思い出せるようなことは何一つ見当たらなかった。
だから吸血鬼はその用途だけを答えてやった。
凝った作りの小さな鈴に、色褪せてしまった毛糸の手袋、子供の興味は次々に飛び移って、色焼けした薄い冊子に手が伸びる。
中を開いた瞬間、一際大きく甲高い声が上がった。
何事かと訝しんだ吸血鬼の鼻先へ、開かれたページが押し付けられる。
それは随分と古めかしいカレンダーで、所々に虫食いの穴があり、印刷された日付のインクも滲んでいた。
その内の一つに、赤いインクで丸が付けられている。
「これって、ユーリの誕生日?」
突拍子もない、と思うのは、それが端から在り得ないものだという認識があるからだろうか。
「いや、違う」
「それじゃあユーリの誕生日はいつなの?」
「知らない。覚えていないと言うほうが正しいのかもしれないが」
「それなら、この日がそうかもしれないね」
つい眉間に皺が寄った。
「何故だ?」
「だって今は覚えてなくても、このカレンダーに丸を付けた時は覚えてたのかもしれないじゃない?」
なるほど、と思わなくもなかった。が、生憎そこまで都合良く解釈できるほどおめでたい頭でもない。
カレンダーに付けられた赤い丸は全て誕生日の印だなんて、あまりにも短絡的な見解が許されるのは子供だけだ。
更なる否定の為に口を開いた吸血鬼より先に、スマイルが声を発した。
「いつかは分からなくても必ずあるよ、だってユーリは確かにここに居るもの」
口を噤んだ吸血鬼は、それ以上何かを言うのは止めにした。
「だからもしかしたら、この日がそうかもしれないよ、きっとそうだよ」
そう言う彼のほうが嬉しそうに見えた。
だから、彼が与えてくれたものを受け取ってみてもいいかもしれないと思えた。
部屋を出る時になってもしっかりとカレンダーを抱えた少年は、来た時と同じように吸血鬼の手を握る。
温もりを持たない指先が小さな掌から熱を奪ってしまうことは気掛かりだったけれど、だからといってそれを振り解くことも出来ず、ようやく解かれた頃には、彼の熱が移された己の手は随分と温かくなっていた。
世界を覆っていた雪も、すっかり溶けて消えていた。
『春へ溶けゆく銀白の冬』
12/09/16