甘い匂いを辿って行ったら、透明人間の所に行き着いた。
「何を作っている?」
彼の目の前にある、ボウルの中で液状化したチョコレートが匂いの元だった。
「なにって、キミにあげるバレンタインのお菓子だけど?」
今日が二月十四日であると、吸血鬼はこの瞬間知った。
「…そうか、ならば出来上がり次第直ぐに私のもとへ持って来い」
紅茶も一緒に、そう言って背を返したユーリの細い二の腕を、スマイルの薄い手が掴まえる。
「ねぇ、キミはボクに何をくれるの?」
張り付いた笑顔が首を傾け、吸血鬼はそれを正面から見つめたまま口を閉ざした。そうしてそのまま暫く何もかもが停止していた。
その間、スマイルの笑顔は一ミリの変化も見せず、静寂に耐え切れず先に動き出したのはユーリの紅い瞳だった。
ゆるゆると右へ、それから左へ転がった眼球は、もう一度右へ動いた所でぴたりと止まる。
吸血鬼の顔に微笑みが浮かび上がり、再び目の前の青い顔を見据える。
「スマイル」
一声呼んで、それから空いた手の美しく整えられた細い人差し指が、溶けたチョコレートを一掬いした。
その指が、透明人間の唇の前まで来て静止する。
「舐めろ」
余りに優美なその命令に、一呼吸分の間を置いてからスマイルが堪えるように笑い出した。
「…まさか、こんなに贅沢なバレンタインチョコレートを貰えるだなんて、思ってもみなかったよ」
ユーリは少し顎を上げると、ふんと鼻で笑ってやる。
「そうだろう、何せこの私の指迄もを口にする事が出来るのだからな」
眦に浮かんだ涙を指で拭ったスマイルは、上げられたままのユーリの片手に自分の手を添えた。
「許されるなら、このキレイな指の先まで、一緒に噛み千切って食べてしまいたいよ」
真っ赤な舌が、甘い指先へ絡みつく。
「馬鹿を言え。私の指が、そんなに安い筈が無いだろう」
スマイルは喉で笑うと、すっかりチョコレートの消えた指をそれでもたっぷりと舐め回してから、名残惜しそうに唇を離した。
「…ねぇ、これっぽっちじゃ足りないよ」
もっと欲しいとねだるスマイルに、ユーリは浮かべた笑みを濃くする。
そうして、料理器具などが散らばるキッチンカウンターへ腰掛けると、流れるような動きで片足の靴と靴下をあっという間に脱ぎ捨てた。
伸びた手は傍らに転がっていたヘラを掴み、ボウルの中からチョコレートを掬い上げる。
その甘い液体が、露わになった素足の上へ、たらりと落とされてゆく。
躊躇うことなく床の上に跪いたスマイルは、デコレーションされた足へ顔を近付けながら舌を伸ばした。
「待て、未だだ」
お預けの命令に、赤い瞳が頭上の綺麗な顔を見上げる。完璧に整えられた美貌には、艶やかで悪戯な笑みが浮かべられていた。
一向に次の言葉を発する様子の無いユーリは、ただ楽しげにスマイルを見下ろすばかりだ。
視線を落としたスマイルは、上等な生地の上からユーリの足首に唇を寄せた。
「あんまり意地悪しないでよ」
それからふくらはぎの辺りに頬をすり寄せる。
「そんなに私の足を口にしたいのか?」
笑いを含んだ低い声が、耳を通じて体に響く。
「うん…お願い」
透明人間のおねだりに、吸血鬼は吐息で笑うと軽く足を揺らして青い顔を離れさせた。
「…少しも残さず、舐め尽くせ」
ようやくの許しを得たスマイルは、両端を吊り上げた唇から再び赤い舌を伸ばした。
チョコレートを丁寧に舐め溶かし、それから指の合間の薄い皮膚まで丁寧に味わう。
湿った柔らかな舌が這い回る感触に、ユーリは息を詰まらせた。
伸ばした舌先で白く美しい足を、その指先から足首にかけてゆっくりと舐め上げてから、スマイルがようやく顔を上げる。
「ねぇ…もっとちょうだい?」
僅かに頬を上気させて微笑む青い顔がおもむろに近付いてくる様を、ユーリは黙ったまま見つめた。
体と体が触れ、吐息がかかるほどの距離で、長い指が形の良い唇にそっと触れる。
「次は、ここがいい」
濡れて光った吸血鬼の瞳は酷く甘ったるい色をしていて、それが浮かんだ笑みに少しだけ細められる。
「…お返しは高く付くぞ?」
透明人間の返答を待たず、繊細でしなやかな指が再びチョコレートの中に沈み込んだ。
『そのチョコレートは、極上』
08/02/15